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イタリア語コース アカデミア デル ジッリョ フィレンツエ

アカデミア・デル・ジーリオでは、生徒が学ぶために最も重要な要素の1つは、授業の質を高め維持することだと考えます。アカデミア・デル・ジーリオの教師陣は、全員が英語を話し4年以上の実務経験を持つ、国内の大学で学位を取得したイタリア人です。生徒が留学中に出会うかもしれない、さまざまな悩みや問題にも快く相談に乗りますので、気軽にご相談ください。

1クラスの生徒数は多いときで7名です。学習するための環境を整えるため、敢えて少人数制にしています。生徒数が少ないと、教師と生徒との距離感が縮まり、よりアットホームな環境で、リラックスしてレッスンに集中することができるでしょう。教師陣にとっても、生徒ひとりひとりに目が届くので、細かい指導をすることができます。フィレンツェ中心街では逃れようのない雑踏の中にありながら、壁の厚い歴史的な建物のなかにあるので、教室内はとても静かです。そのため雑音に悩まされることなく、集中して勉強することができます。

初めてイタリア語を学ぶ入門コースの生徒以外は、毎週月曜日からレッスンを受けることができます。入門コースの日程表は「2007年度 入学日」をご覧ください。入学日に簡単なテストを行います。テストの結果に基づいて、同レベルの生徒が一緒に勉強できるように、それぞれの能力に合ったクラスへ振り分けます。コース終了時に目標のレベルに達している場合には、アカデミア・デル・ジーリオが発行する出席証明書を授与します。当校のコースを修了した生徒は、公的なイタリア語能力テストを受けることができます。 その他、詳細は学校に直接お問い合わせください。

私のイタリア・フィレンツェでの語学留学経験と、美術学院での経験 (Studiare lingua italiana e Belle arti in Italia: l’esperienza di Asuka)

日本の芸術大学の彫刻科に在学中より、イタリア独自の修復技術に関心があり、将来イタリアに尽いてその技術を習得したいという思いから独学にて伊語を学び始める。 現地での伊語のより深い修得と、修復に関する学校の情報収集のため、大学終了2年後、ようやくイタリア・フィレンツェへ語学留学できる事となった。 同年、当語学学校教師の協力を得て、カッラ-ラという街にある国立美術学院の中に大理石彫刻保存修復コースの存在を知り、当学院への入学を目指し始める。こうして当時のその教師のおかげで、留学期間中に自分の進路を定めることができた。 この度の留学生活に尽いては、たくさんの出会いに恵まれ、また先生方からは公私共に様々な助けを受け、まさに人との繋がりの大切さを再認識できる素晴らしい機会となった。 翌年、国立美術学院の入学試験の結果により、念願であった修復コースでの勉強を開始。 当初、イタリアの学生たちと同等の立場で学ぶという事が、想像以上に大変ではあったが、 同じ修復士を目指す仲間や、意欲あるものに対し非常に協力的な姿勢である教授陣に助けられ、今日に至っている。イタリアへと決めた時から既に6年近くが経過しているが、願っていた状況に至るまで常に周りの人たちに助けられてやってこれた。 語学学校でのインタビューの映像はこちらへ あすか

「滞在許可証の申請方法の変更について」

就学用滞在許可証の申請がさらに簡単に(しかし、費用はさらに高く)なるようです。申請に際し以下のことが必要になります。政府公認の学校および大学で3ヶ月以上のコースを受講する場合、以前はクエストゥーラ(警察署)に出向く必要がありましたが、今後はイタリア到着後8日以内に当該の郵便局(郵便局のリストはCercaufficioで検索できます)で滞在証明交付のための提出書類のキット(EU圏外の外国人用は黄色のラインの入った封筒)を入手できるようになりました。キットにある滞在許可証の申請書類の所定欄を記入後、以下の書類とともに郵便局に提出してください。

-パスポートのすべてのページのコピー -入学許可証 -海外旅行傷害保険証のコピー -収入印紙14.62ユーロ分 -滞在許可証交付のための電信振込27.50ユーロ分の受領証控え (郵便局でキットとともに渡されます) -在日イタリア大使館より交付されたヴィザのコピー (パスポートのコピーとは別に)

郵便局で、申請状況を確認するのに必要となるユーザーIDとパスワードが記載された証書(mod.22A)を受け取ります。郵便手数料30ユーロは、郵便局で支払います。その後書留郵便が届いてから警察署内の移民局に出向き、証明写真4枚を提出して滞在許可証を受け取ってください。

この記事に関して、当校の生徒であるArisaさんに情報を提供していただきました。

traduzione dall’italiano di Chiho Masuda e Tomoko Minoguchi, studenti dell’AdG

べファーナ見たことある?

イタリアでは1月6日はべファーナの日です。良い子にはお菓子を、悪い子には炭(古く過ぎ去ったことの象徴)を置きながら、ホウキに乗って夜空を飛ぶ賢くて温情のある魔女 に似た老婦人です。 でもべファーナとは誰でしょう?サンタクロースとは反対で、べファーナはトナカイを持たず、良い服を着ておらず、世界中ではなくイタリアの暖炉の煙突から降りてきます。 普通みすぼらしい姿で現れ、暖炉に吊るされた贈り物で満たすための靴下の下に子供達の気持ちで置かれた少しのパンと少しのワインで満足します。 べファーナお礼として灰の上に自分の手形を残していくと言う伝説がある。 べファーナはエピファニーァに由来する。つまりイベントである。実際この日はカトリック教会では、はじめて東方三博士にイエス・キリストの人性と神性を表わすことを祝う。これは存在理由を明らかに説明するのに不十分です。これについてはイタリア国内に限り民間伝承として親しまれている。 様々な説があり、ベファーナに見られるひとつ目の説は、異教の神に一致し、古代ローマ人によれば彼女は12月25日からの12日間、将来の収穫を乞う為に彼らの畑の上を飛んでいたとされています。二つ目のベファーナに関する説は、既に年寄りで見にくい過ぎ去った一年を若く美しいものに戻す為に焼かなければならない母なる自然を人格化したものであるようです。 母なる自然が死ぬ前に、来年の果実を表現した贈り物を配るためだったのだろう。 またほかのケースでは、べファーナはヤヌスとストレニアの礼儀において、新年に贈り物を交換するという、ローマの古い伝統を続けるためのただ一つの方策であったのだろうと考えられる。 特に女神ストレニアの神聖な森でいくらかの月桂樹の小枝が、贈り物を装飾するという習慣とともに収穫された。まさしく「贈り物」という意味である「strenna」というイタリア語の起源はストレニアに由来する。 最後に民話ではべファーナは東方三博士に子供のキリストの所につくまでの道順を聞かれた老女だと言われています。 老女は彼らの旅程について行きたくなかったが、考えを改めた結果、 キリストに会うための希望を持って家から家へ渡り歩き、全ての子供達に、お菓子を配ることを決めた。 そのとき以来、老女は毎年東方三博士と会う記念日に屋根へ行って、そして子供達にプレゼントを配ると言われています。 しかしながらこの古い習慣は貧しい人たちにお恵みをするための方法でもあった。1月6日一日中とっても有名は童話の朗読が至る道で行なわれる。”べファーナは夜に来る、壊れた靴を履いて” あなた達も試してみて!!さぁ!!暖炉の脇にあなた達の靴下を吊る下げて、たぶんべファーナが来るでしょう! 炭のことは心配しないで。今日、たいてい、砂糖で出来ているから。

“イタリア人がイタリア語を話し始めた時”

Il seguente articolo, apparso sul nostro blog in italiano all’inizio di questa settimana, è stato tradotto da alcune nostre studentesse giapponesi durante un’esercitazione in classe (livello intermedio). Ringraziamo: Tomoko Igarashi Yumiko Saigo Ritsuko Kobayashi Tomoko Hoshikawa Tomko Minoguchi Satomi Azuma

1861年イタリア統一の年、2500万人の内の20万人のイタリア人だけが正しくイタリア語を話していた。 残りの人は今でも使われている数ある、それぞれ違う方言を話していた。 1861年までは、貴族の人たちは、フランス語を好み、聖職者は当然ながら、ラテン語を好み、庶民は、ダンテ・ペロラルカ・ボッカッチョが文章の中で使っていた、トスカーナの庶民の言語を好み、それが今ではイタリアの標準語となった。 学習については当然公立の学校の中で行われた。 しかしそれは全ての子供達に義務付けられておらず、中学校は3年間しかなかった。 子供達はイタリア語の基本しか学ぶ手段を持っていなかった。 兵役の義務あった。21歳の若者はイタリアのほかの地区で1年間兵役につかなければならなかった。兵舎での生活ではイタリア語での伝達を強制されたが、しかし第一次境対戦中いくつかの作戦は兵士の間で言語的な無理解があったように見えた。 第3歩はファシズムの20年間に生じた。ファシズム政権は彼らの思想の普及のために新聞、ラジオ、映画を用いたため、イタリア人は初めてほぼ毎日彼らの言語を聞くようになった。ファシズム当局がイタリア化を導入したことで、いくつかの新しい言葉、たとえばフランス語の”chuffeur”に変わって”autista(ドライバー)”や、”Mickey Mouse”の名前ではイタリアに入ることの無かった”Topolino”などを作った。第二次世界大戦の間、ムッソリーニが失脚した後、イギリスから世界で実際に起こっている情報をイタリア国民へ伝える “ラジオ・ロンドン”に同調するためイタリア人はラジオを聞き続けた。 より重要な段階は1954年1月3日である。イタリアの全ての世代のための正真正銘の模範であるイタリア・テレビが生まれた。1959年から1969年間のRAIについて考えればよい、初等教育のもくろみと共にカリキュラムに至るまで放送した。実例の題名としては”Non e’ mai troppo […]

Yas Yamamoto: photographer/fotografo

On flickr, the excellent website where you can find a huge quantity of photos, you can also appreciate the shots by the photographer Yas Yamamoto (born in Tokyo in 1970). In 2005 Yamamoto spent some months in Florence, where he attended our Italian language classes and at the same time the Arese Visconti photo studio, […]

Machi Uè, textile designer

Per la serie non perdiamoci/li di vista, rubrichetta saltuaria sui nostri studenti, ex-studenti e amici, presentiamo l’artista giapponese Machi Uè, textile designer, che dopo aver ricevuto in Canada il diploma in Disegno su tessuto, è arrivata in Italia portando con sé un po’ di Giappone e un po’ di Nordamerica e lasciandosi dentro tanto spazio […]